名所・施設一覧

大師山寺(だいしさんじ)

両側に灯ろうが吊るされた石段と門を仰ぎ見た様子の写真
上市・吉野エリア

古くより信仰の山として親しまれてきた良縁の寺。
正式には大師山妙法寺といい、首から上の病にご利益がある身代大師さんや新四国八十八ヶ所巡りができます。

吉野山(よしのやま)

緑深い山々の尾根を静かに覆う雲海の写真
吉野山エリア

大峯連山の北の端から、南に約8キロメートルつづく尾根が吉野山。古来より日本一の桜の名所として名高いところです。
吉野山の谷から尾根を埋める桜はおよそ3万本。下千本(吉野駅付近)から中千本(如意輪寺付近)、上千本(吉野水分神社付近)、奥千本(西行庵一帯)へと花期をずらして順に咲きのぼる様子は壮観です。
4月上旬から下旬まで桜花を賞でることができるのは吉野山ならでは。
また、馬の背のような山は役行者(役小角)を開祖とする修験道の寺や、南朝ゆかりの史跡、西行や芭蕉が逍遙した文学の史跡など、みどころがたくさんあり、桜のあとは新緑、蝉しぐれ、紅葉、荘厳な冬景色…と四季それぞれの美しさで訪れる人々を魅了します。

    • 世界遺産
    • 庭園・公園
    • 湖・川・山・道
    • 修験道役行者
    • 壬申の乱・大海
    • 南朝・太平記
    • 義経・静
    • 芭蕉

吉野水分神社(重文)(よしのみくまりじんじゃ)

3殿を1棟続きにした長い建物、白い玉砂利と緑が鮮やかな庭の写真
吉野山エリア

子守の民家がおわるところにあり、水の分配を司る、天之水分大神を主神としています。
"みくまり"が"御子守"となまって俗に子守さんとよばれ、子宝の神として信仰されています。桃山様式のたいへん美しい本殿や楼門・拝殿などからなる神社で、豊冨(臣)秀頼の再建。本殿は一間社春日造り、左右の2殿は三間社流造りで、3殿を1棟続きにしてあり、庭を挟んで左に拝殿があります。
虹梁・長押など彩色した彫刻が施され、とても華やか。初夏のスズランも美しい。山頂付近にあるので眺望も優れています。ここから宮滝万葉の道へ出るのもいいでしょう。

    • 世界遺産
    • 修験道役行者
    • 神社

吉野神宮(よしのじんぐう)

白い玉砂利と黒い壁面の対比が印象的な大きな門の写真
吉野山エリア

明治22年明治天皇は後醍醐天皇の偉業を深く偲び、吉野神宮の創立を命じました。明治25年に執り行われた鎮座の際には霊代の奉納と共に、それまで吉水神社に奉安されていた後醍醐天皇の尊像も吉野神宮の本殿に奉還されました。
大鳥居をくぐり、こんもんとした桜やかえでの林をぬけて境内へ入ると、明るく広い台地が目の前に広がります。祭神は後醍醐天皇。摂社は日野資朝、児島高徳など7人の功臣たちをまつっています。社殿は約10年を費やして1932(昭和7)年に改築が完成。古今の神社建築の粋を集めた、総桧造りの見事な建物です。この地は、大塔宮(後醍醐天皇の皇子、護良親王)が吉野に挙兵されたおり、北条幕府方に占拠され本陣になったと伝わるところ。正北面を向く本殿は、京を恋しく思われた後醍醐天皇の心情をうつしたのだといわれています。展望がよく、ここから葛城、金剛の山並みが見渡せます。

    • 神社
    • 南朝・太平記

吉水神社(書院・重文)(よしみずじんじゃ)

隣り合う大きな屋根が印象的な2つの建築物と境内の様子の写真
吉野山エリア

もとは吉水院という、金峯山寺の格式高い僧坊でしたが、明治のはじめ、後醍醐天皇、楠木正成、宗伸法印をまつる神社に改められました。
吉野へ潜行された後醍醐天皇を、吉野大衆の中でも特に力をもっていた住職、宗信法印がお迎えし、吉水院は一時行宮となります。源義経が静御前や供のものと逃げのびてきたのも、太閤秀吉の花見の本陣となったのもここです。
当神社には南朝の古文書や武具、秀吉の花見に使われた楽器など、100点を超える宝物が残っています。また、初期書院造りの傑作といわれる書院建築で、義経潜居の間、後醍醐天皇玉座の間、太閤秀吉花見の間があります。うち、義経の間が室町時代様式で、他は桃山時代以降のもの。

    • 世界遺産
    • 神社
    • 資料館・博物館
    • 修験道役行者
    • 南朝・太平記
    • 義経・静

東南院(とうなんいん)

茶色い屋根と白い円柱の壁面が印象的な二重塔の写真
吉野山エリア

東南院の開基は役行者と伝えられています。開山の際に、本堂とともに本堂から巽(東南)の方角にあたるこの地に建てられたと伝わります。
1684(貞亨元)年、俳人松尾芭蕉がここに滞在したとき、『野晒紀行』に詠んだ句碑が立っています。

    • 修験道役行者
    • 芭蕉

天王橋(てんのうはし)

茶色の鳥居から続く階段と門、屋根付きのバス乗合所など風情ある町並みの写真
吉野山エリア

大塔宮が吉野に蜂起されたとき、三空堀に見たてられた谷にかかる大橋・天王橋・丈の橋を吉野三橋といいます。
大橋は七曲り坂を登りきった攻が辻のすぐ上手にある、朱塗りの欄干の橋。天王橋は竹林院近くの小さな橋です。
丈の橋は残っていません。大橋を渡ったあたりから、門前町の風情ある町並みが広がります。

    • その他史跡・文化財
    • 南朝・太平記

高城山(たかぎやま)

円形のベンチが設置された広場と稜線が覗く平屋建ての休憩所の写真
吉野山エリア

標高702メートル、大塔宮が吉野で挙兵された際、奥の詰城になったところ。現在は休憩所が整備され、吉野連山の眺めが楽しめます。

    • その他史跡・文化財
    • 庭園・公園
    • 観光施設
    • 南朝・太平記

櫻本坊(さくらもとぼう)

大きな灯籠が左右に置かれ、瓦屋根が印象的な門の写真
吉野山エリア

桜の夢のご縁で天武天皇建立、天武・持統帝の勅願寺。神仏習合修験道場。
神変大菩薩(鎌倉時代・重文)をご本尊とし、天武天皇ご念持仏・釈迦如来坐像(飛鳥白鳳時代・重文)など数々の寺宝が伝わります。
聖天堂には、役行者ご感得の日本最古の聖天尊(歓喜天)が祀られています。

    • 資料館・博物館
    • 修験道役行者
    • 壬申の乱・大海

西行庵(さいぎょうあん)

一面が橙色で埋め尽くされた落ち葉の絨毯と赤が艶やかな木々の下にひっそりと佇む西行庵の写真
吉野山エリア

山上ヶ岳への道をそれ、谷筋を下ると小さな台地が開け、西行がしばらく隠棲したといわれる西行庵があります。付近は奥千本で桜のころはもとより新緑、紅葉がとても美しい。

    • その他史跡・文化財
    • 芭蕉

大橋(おおはし)

朱塗りの欄干と緑色の草木のコントラストが美しい橋の写真
吉野山エリア

大塔宮が吉野に蜂起されたとき、三空堀に見たてられた谷にかかる大橋・天王橋・丈の橋を吉野三橋といいます。大橋は七曲り坂を登りきった攻が辻のすぐ上手にある、朱塗りの欄干の橋。天王橋は竹林院近くの小さな橋です。丈の橋は残っていません。大橋を渡ったあたりから、門前町の風情ある町並みが広がります。

    • その他史跡・文化財
    • 南朝・太平記

如意輪寺(にょいりんじ)

木々を背景にした木造の本殿と境内の様子の写真
吉野山エリア

創建は901~22(延喜年間)年と伝えられています。1336(延元元)年、後醍醐天皇の勅願寺とされた寺。
天皇没後、楠木正行が大阪四条畷の戦いに出陣前、鏃で記した辞世の歌が堂の扉(宝物殿に保存)に残ります。森のなか、静寂につつまれた境内には正行一行の髷塚もあります。
宝物殿に安置されている蔵王権現像は、鎌倉時代中期、1226(嘉禄2)年の作で、役行者が山上ヶ岳山上で感得した蔵王権現の忿怒の姿をみごとに表現しています。

    • 資料館・博物館
    • 修験道役行者
    • 南朝・太平記

村上義光の墓(むらかみよしてるのはか)

木々に覆われ、石柱の柵に囲われた墓とお供え棚の写真
吉野山エリア

吉野神宮の南約1キロメートル、不動坂をのぼりつめた丘の上に立つ宝篋印塔が、信濃の武将、村上義光の墓。義光は1333(元弘3)年に大塔宮の身代りとして、蔵王堂仁天門上で自害しました。その首が大塔宮のものでないかといわれており、ここにすてられたのを、里人が葬ったとつたわっています。墓の右には、1783(天明3)年に立てられた忠烈碑があります。

    • 陵墓・墳墓
    • 南朝・太平記

村上義隆の墓(むらかみよしたかのはか)

木々に覆われ、石柱の柵に囲われた墓の写真
吉野山エリア

義隆は大塔宮が熊野へ逃れられる際、父義光が敵を制す間にここでしんがりをつとめ18歳で討死。墓は1870(明治3)年に立てられたものです。

    • その他史跡・文化財
    • 陵墓・墳墓
    • 南朝・太平記

吉野朝皇居跡(よしのちょうこうきょあと)

「吉野町宮址」と彫られた石柱と三重塔の写真
吉野山エリア

1336(延元元)年、吉水院に難を避けられた後醍醐天皇は、次に蔵王堂の西にあった実城寺を皇居とされ、寺号を金輪王寺と改められました。
後醍醐天皇は悲運の生涯をここで閉じられましたが、その後、南朝3代の歴史が続きます。徳川時代になり家康は、吉野修験の強大な勢力を恐れて弾圧政策をとり、寺号を没収。もとの実城寺に戻し、直轄の支配下におきました。
明治時代になると廃仏毀釈の嵐にのまれて廃寺に。いまは南朝妙法殿が建ち、皇居跡公園として整備されて、後醍醐天皇以下、南朝4帝の歌碑も建っています。

    • その他史跡・文化財
    • 庭園・公園
    • 修験道役行者
    • 南朝・太平記

苔清水(こけしみず)

苔むした岩の隙間から竹を伝って水が流れる様子の写真
吉野山エリア

西行庵の近くには、「とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすまでもなき住居かな」と西行が詠み、芭蕉が句に詠じた苔清水がいまも清らかに澄んでいます。やまとの水31選のひとつにも選ばれています。

    • その他史跡・文化財
    • 湖・川・山・道
    • 芭蕉

喜蔵院(きぞういん)

「歴代総長役員彰徳碑」と彫られた巨大な石碑と瓦屋根の門の写真
吉野山エリア

宮坂をのぼりつめて左手にある宿坊(ユースホステルを併設)。修験道本山派、京都の聖護院の一院。
江戸時代中期には由井正雪の乱の疑いを受けた儒者熊沢藩山が潜居したといい、玄関前に歌碑があります。
また36種の桜を鮮やかに描いた“桜の譜”が残っています。

    • 修験道役行者

金峯山寺蔵王堂(国宝)(きんぷせんじざおうどう)

赤茶色の桧皮葺が印象的な堂の外観の写真
吉野山エリア

金峯山寺は吉野山のシンボルであり修験道の根本道場です。金峯山とは吉野山から山上ヶ岳(大峰山)にいたる山々の総称で、“金のみたけ”という意味。山上ヶ岳にある大峰山寺への玄関口の役割を持っています。創立年代は不明ですが、その昔、役行者が金峯山を開き、平安時代に聖宝理源大師が蔵王権現像を安置したといわれています。以降、中世において隆盛をきわめ、現在も金峯山修験本宗総本山として偉容を誇っています。
蔵王堂は、金峯山の高台にそびえたつ、東大寺大仏殿に次ぐ木造の大建築で、現在の本堂は1592(天正20)年に再建された、室町末期を代表する建造物です。正面5間、側面6間、建物の周りに藻腰を付けた入母屋造り、桧皮葺。高さが約34mもあるので、吉野を巡る折々にその威風を見ることができます。本尊として3体の蔵王権現像をまつり、中尊の高さは7m余りの巨像。堂内は内陣と礼堂からなり、松やチャンチン(ツツジの一種)など自然木を素材のまま使った柱68本が林立するさまは豪壮です。また、内陣の2本の金箔張りの化粧柱や須弥壇は太閤秀吉が花見の際に寄進したものといわれ、桃山建築の美しさを残しています。

    • 世界遺産
    • 資料館・博物館
    • 修験道役行者
    • 南朝・太平記
    • 義経・静

金峯山寺 仁王門(国宝)(きんぷせんじにおうもん)

赤茶色が印象的な楼門を下から仰ぎ見た様子の写真
吉野山エリア

銅の鳥居から200メートル余り。三間一戸、人母屋造り、本瓦葺の楼門で、門前町本通りのつきあたり、右段の上に建っています。1456(康正2)年に再建されたもの。
南向きの本堂が山上ヶ岳からの巡礼を迎えるのに対し、この門は北を向いています。大阪や京都から逆峯入りする信者を迎えるためです。

    • 世界遺産
    • 修験道役行者
    • 南朝・太平記

金峯山寺黒門(きんぷせんじくろもん)

石垣と木々に囲まれた道に立つ黒色が印象的な門の写真
吉野山エリア

金峯山寺の総門で、昔は公家大名といえども槍を伏せ、馬をおりて歩いたといわれます。

    • その他史跡・文化財
    • 修験道役行者