論争の歴史~吉野宮の宮滝説が通説になるまで~

今日、宮滝遺跡が吉野宮であることは定説になっています。しかし、そこに至るまでは長い研究の道のりがありました。

江戸時代

『大和志』という書籍によると、3か所の候補地が考えられていたことが分かります。その候補地とは、川上村大滝、吉野町宮滝、下市町秋津であったようです。また、吉野山にも吉野宮の伝説が伝わっていました。


明治時代

主に万葉集によって、吉野宮の研究が進みました。特に吉田東伍氏の研究は、後の研究者たちに少なからず影響を与えました。吉田東伍氏は著書『大日本地名辞書』にて、宮滝と下市とを比較し、宮滝説に軍配を挙げています。また、このころ木村一郎氏が宮滝で遺物を採取されていました。


大正時代

主に万葉集によって、大滝説と宮滝説とで議論が進みました。徐々に宮滝説をとる研究者が増えていき、大正12年に国文学者の澤瀉久孝氏が「吉野離宮跡の位置其他」で宮滝説をとった事で、非常に優勢となりました。このころ、郷土史家の山本源次郎氏が宮滝の検証を進めていました。


昭和はじめ~前半

宮滝説をとる郷土史家の中岡清一氏と、東吉野村小川説を提唱する森口奈良吉氏とが論争を行いました。中岡氏の立場を応援する者として、喜田貞吉氏や辰巳利文氏らがいました。また、森口氏を応援する者として、豊田八十代氏らがいました。このころ、宮滝で第1次発掘調査が行われました。


昭和後半

宮滝説をとる研究者の数と比べると、小川説をとる論者が減っていきます。しかし、依然森口氏は精力的に研究を進めていました。また、大滝説が再び注目されるようになったり、大淀町比曽説が提唱されるなるなど、新たな展開が発生しました。


平成

宮滝遺跡の発掘調査で池状遺構が確認され、宮滝遺跡が吉野宮跡であるとの見解が通説になりました。また、壬申の乱の記述から吉野宮の位置を探る研究が盛んになり、実際に踏査などが行われるなどして、宮滝が吉野宮跡であるとの見解がますます有力になりました。


そして、現在にいたる...