宮滝遺跡とは

【遺跡紹介の前に...】吉野宮のご紹介

飛鳥時代の天皇、斉明天皇が吉野にお造りになられた離宮です。以来、大海人皇子(後に天武天皇)、持統天皇、文武天皇、元正天皇、聖武天皇などの行幸がありました。特に、大海人皇子が吉野宮に来られた時には、壬申の乱という大きな内乱の起点となり、古代史上、大きな役割を果たしました。また、天皇の行幸と共に、万葉集などの歌が詠まれました。

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飛鳥時代の池状遺構等の復元模型


吉野宮(離宮)の跡か

宮滝遺跡は、飛鳥時代から奈良時代にかけてあったとされる吉野宮の跡と考えられています。宮滝の集落のほぼ全域から、飛鳥時代~奈良時代の遺物が確認されており、大型の掘立柱建物跡や池状遺構などが確認されています。

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大型掘建柱建物の復元イメージ


宮滝遺跡が確認された経緯

吉野宮の正確な所在地は、どの書物にも記録されませんでした。そのため、平安時代には吉野山に、江戸時代には大滝・宮滝・秋津のいずれか(または全部)に、その比定地が求められるようになっていきます。明治・大正・昭和と時がたつにつれて、正確な場所を調べようとする動きが起こり、昭和の初めには論争もおこりました。こうした中で、地元の郷土史家らが宮滝で古い時代の瓦や土器を採取し、遺跡の確認へと繋がったのでした。



宮滝で出土する遺物

宮滝遺跡ではこれまでの調査で飛鳥時代~奈良時代だけでなく、古くは縄文時代から、最近では江戸時代までの遺物も見つかっています。縄文時代後期の標識土器・宮滝式、弥生時代の土器棺、平安時代の地鎮に用いられた黒色土器、呪文のようなものが描かれた土師器などです。日常使いののものから特殊なものまで、様々な遺物が確認されています。これらは、様々な時代に、様々な人々が宮滝で暮らし、あるいは訪れて、宮滝を眺めてきた証といえます。

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縄文土器(宮滝式)

弥生土器(土器棺)

黒色土器(平安時代)

墨書土器(江戸時代)



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