吉野の歴史と文化

憧憬の地『吉野』

奈良県のほぼ中央に位置する吉野町。奈良県の政治経済の中心である大和盆地の南に横たわる龍門山系をひと越えすれば、そこには大台ヶ原に源を発し滔々と流れる吉野川、さらにその南には重畳たる吉野大峯の山々が控えています。そのような自然豊かな吉野は、大和盆地に都が置かれた太古の昔から、遙か東京の地に都が置かれる現代に至るまで、日本人の心を強く惹いて止みません。 人々の心を強く惹く要素は何かと問われれば、吉野には様々な要素があり、かつそれぞれが絡み合っており単純に答えることができません。ここでは、その要素のうち桜、歴史、修験道という3つの要素について簡単に説明して、吉野の奥深さを少しでも知っていただきたいと思います。

~さくらの国のさくらの名所~吉野山

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日本人は桜が大好きです。その証拠に花見といえば、チューリップやひまわりを連想しません。桜を見ることを花見といいます。日本人は花と言えば桜をイメージするのです。 その桜の名所として吉野は古来より全国に知れ渡っています。吉野の桜の由来は、修験道の開祖役行者(えんのぎょうじゃ)が、修行によって日本独自の仏である金剛蔵王権現を祈りだした時、その姿をヤマザクラの木で刻みお祀りしたことに始まると云われています。以来、花見のためにではなく、蔵王権現や役行者に対する信仰の証として、信者たちによって献木として植え続けられ、現在の花の吉野ができたと云われています。

みよしのの山辺に咲けるさくら花雪かとのみぞあやまたれける / 紀友則

こえぬ間は吉野の山のさくら花ひとづてにのみ聞きわたるかな / 紀貫之

吉野は、平安時代に編まれた古今和歌集に既に桜の名所として詠われています。その後、西行法師が、また松尾芭蕉が、などなど多くの文人墨客が吉野の花をこよなく愛し、山深い吉野に杖を引いています。 現在、全国各地のほとんどの桜の名所には、ソメイヨシノといわれる桜が植えられています。江戸は染井町の植木屋さんが作り出したこの品種は、染井町で産まれた吉野の桜のように美しい桜という意味で名付けられたようですが、現実の吉野にはほんの少ししかありません。吉野には3万本の桜があるといわれていますが、その由来通り、いまでもその殆どはシロヤマザクラです。大正年間に吉野の史跡と桜を保護するために設立された財団法人吉野山保勝会が、約50haにも及ぶ桜樹林を管理しています。よく管理された急峻な山あいを桜花が埋め尽くす見事さは筆舌に尽くせません。吉野は歴史の深さと見事さにおいて、日本一のさくらの名所といっても過言ではないでしょう。

哀史の里 吉野

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花の吉野は、また豊かな歴史や伝承で彩られています。吉野という地名は、早くも記紀の神武天皇御東征のなかにでてきます。宮滝などでは縄文や弥生時代の土器が発掘されており、また、応神天皇以来、幾度と無く吉野の宮への行幸の記事がでてくることから、吉野は太古の昔から文化が発達し、世に知られた土地だったのでしょう。 古代においては何と言っても、大海人皇子(後の天武天皇)が吉野に潜行され壬申の乱で兵を挙げられたことは有名です。時代が下ると源義経が兄頼朝の追捕を逃れて、愛妾静や弁慶などを伴って吉野に入りました。しばしの安らぎも束の間、吉野から逃れる際に別れざるを得なかった義経・静の悲恋の物語が残っています。さらに時代が下ると大塔宮護良親王が鎌倉幕府倒幕のために、河内の楠木正成と呼応して吉野を城塞化され、兵を挙げられます。また、建武の新政の夢破れられた後醍醐天皇が、吉野に朝廷を開かれたことは太平記に詳しく記されています。南朝四帝が吉野の地を頼みとされ、京都奪回のためにこの地から全国に号令を発せられたのです。この願いは遂に実現しませんでしたが、忠僧宗信法印をはじめ当時の吉野の人々は、我が身を顧みず終始、南朝のために尽くしたのです。

歌書よりも軍書に悲し吉野山 / 各務支考

このように吉野は中央で居所を失った人々、所謂アウトサイダー達が再起を図る場所といっても良いでしょう。その都度、吉野は戦場と化し、多くの命が失われ、悲しい別れが幾度と無く繰り返されたのです。 後に、太閤秀吉が5000人の家来を引き連れて大花見を行ったという記録もありますが、吉野は、そのような晴れがましい歴史より、哀しい歴史に思いを馳せたくなるような土地柄なのです。

修験の聖地 吉野

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大和盆地に都が置かれた太古の昔より、吉野は神さぶる地とされていました。なかでも吉野水分峯(よしのみくまりのみね=青根ヶ峰)は、四方に川の源を発することから神奈備山として崇められていました。古代の多くの天皇が吉野に行幸されたのは、この山に祈りを捧げるためだったのではないかとも云われています。このような日本古来の自然崇拝の思想と、外来の仏教・儒教・道教などが融合して出来たのが、日本独自の宗教「修験道」なのです。 修験道は平安時代に入り組織化されたと考えられますが、白鳳時代の人、役行者(役小角)を開祖としています。役行者が、金峯山上(山上ヶ岳)で厳しい修行の後、本尊蔵王権現を感じ取り、その姿をヤマザクラの木で刻みお祀りしたことが始まりとされています。金峯山上は老人や女子供が参詣するには厳しすぎるために、その山下にあたる吉野山に同様にお祀りしたのが、現在の金峯山寺蔵王堂といわれています。平安時代には隆盛を極め、宇多上皇や白河法皇などの皇族方や藤原道長や頼通などの貴族が競うように金峯山詣でを行います。そして、多くの荘園や田畑が寄進され、吉野は大きな勢力を持ち、最盛時には山上と山下の蔵王堂を中心に百数十の塔頭寺院が甍を並べていたと云われています。後醍醐天皇をはじめ南朝方の経営は、このような勢力を頼みとされていたのです。南朝に尽くすことで吉野の勢力は一時まったく衰微するのですが、近世に入り、大坂・堺を中心とする一般庶民の山上参りが盛んとなり、あらためて吉野は修験の聖地として賑わいを見せていたのです。 ところが、明治初年の神仏分離、廃仏毀釈の運動は、神仏習合を旨とする修験道を根本的に打ち壊してしまいました。全国にあった修験の霊場と同様に、吉野の修験寺院は悉く廃寺に追い込まれ、金峯山寺の山上・山下の両蔵王堂も金峯神社の奥の宮・口の宮とされてしまいました。これにより修験道は消え失せたかのように見えましたが、信仰の強さと根強い嘆願運動が実を結び、明治19年に両蔵王堂は仏寺に復帰することが出来ました。しかし、往年の姿を取り戻すにはほど遠く、山上と山下の蔵王堂も別々の寺とされてしまいました。とはいえ、現在でも夏ともなれば、梵天鈴掛の山伏姿や白装束の信徒の皆さんで賑わいを見せる修験の聖地吉野にかわりはありません。

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