壬申の乱と吉野

吉野の宮を語る上で、672年におこった"壬申の乱"は欠くことが出来ません。古代最大の内乱とも評される壬申の乱と吉野には、どのような関係があるのでしょうか。


壬申の乱前史

天智天皇(西暦626-672)の御代、次時期天皇の候補者が二人おられました。一人は天智天皇の息子・大友皇子。そしてもう一人は天智天皇の弟・大海人皇子です。天智天皇がお隠れになる2カ月前、天皇は病床に大海人皇子を呼び、「後の事はお前に任せる。」と伝えました。しかし、陰謀を感じた大海人皇子は、持病を理由に辞退し、出家して吉野へと向かいます。この時、誰かがこう言ったと伝わります。

「虎に翼をつけて放てり。」


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壬申の乱の展開

天智天皇がお隠れになって半年ほどたった672年5月のこと。大海人皇子のもとに、大津京に不穏な動きがあるとの情報が入ります。同年6月24日、大海人皇子は吉野をお発ちになって不破へと向かい、大友皇子との戦いに挑まれます。この戦に勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となり、様々な制度改革に邁進されることになります。



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吉野の盟約

天武天皇8(679)年、天武天皇は皇后の鸕(う)野讃良と6人の皇子とともに吉野宮へ行幸します。吉野宮の庭で、天皇・皇后・皇子は「私達には10人余りの皇子がいて、皆母親は異なるけれども、天皇の勅にしたがってお互い助け合おう」と誓い合ったのです。この時、天武天皇が詠んだとされる歌が、伝わっています。

よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見


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持統天皇の行幸

天武天皇がお隠れになった後、皇后の鸕(う)野野讃良が即位されます(持統天皇)。持統天皇は30回以上、吉野行幸をしたことで知られます。その理由は、まじない、夫との思い出、夫の遺命など様々言われていますが...。持統天皇は吉野に何を求めていたのでしょうか。


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※鸕(う)野讃良の一文字目、鸕(盧+鳥)は環境によってうまく表示されない場合があります。